映画『ブルックリン最終出口』を観て分かるのは、ドイツ人である監督のウーリー・エデルはブルックリン(ニューヨーク)を西ベルリンと重ねた「退廃の街」として描いているということ。つまり本作の原作からの多大な影響を公言するルー・リードが、『Berlin』において西ベルリンをニューヨークと重ねて「退廃の街」として描いたのと逆の(でも本質的には同じ)ことをやっているわけだ。ちなみに、本作公開直後の1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊するのだった。
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先日『クライング・ゲーム』を久しぶりに観直したら、遊園地のショットから映画が始まったので思わず笑ってしまった。ニール・ジョーダンという監督は「海辺の寂れた町」「遊園地」といった、かなり特徴的なモチーフをキャリアを通して何度も何度も繰り返し描いてきた作家だ。「サム・フリークス Vol.15」で上映する『ブッチャー・ボーイ』も「海辺の寂れた町にある寂れた回転木馬」という↓のショットだけでニール・ジョーダン映画としては傑作認定という感じじゃないかな。
ちなみに私見では『ブッチャー・ボーイ』『プルートで朝食を』『モナリザ』がニール・ジョーダン映画のベスト3。どれも遊園地が登場するし、どれも「親子」についての物語。というか、ニール・ジョーダンほどその作家性が分かりやすい人もなかなかいないよな。ニール・ジョーダンが虐げられている者に対して思い入れを抱くのは、彼のアイルランド人としてのルーツ(とアイルランドと英国の関係性)が影響していることは明らかだし。アイルランド独立の闘士であるマイケル・コリンズの伝記映画を監督しているのはその証左といえるだろう。
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映画『The Sparks Brothers』で最もエドガー・ライトの作家性を感じたのは、ラッセルが「最初はミック・ジャガーやロジャー・ダルトリーのようになろうとしてたんだ」、ロンが「初期のフーやキンクスのような曲を作ろうとしてたんだ」と語っている場面で、明らかにメインの話題はフーとかストーンズなのに、BGMではキンクスの「David Watts」を流し続けていたところだな。もちろん、この曲は「誰かに対する憧れ」がテーマになっているので間違ってはいないんだけど、さすがに分かりにくすぎる。
以前にも指摘したように、エドガー・ライトは『ホット・ファズ』が映画版『プリザヴェイション』のような内容で、劇中で「The Village Green Preservation Society」と「Village Green」を大フィーチャーしていた前科があるキンキーな人なので、まあ納得ではある。いや、マジでそういうところやぞ(好き)。
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何の気なしにスパークスのドキュメンタリー映画『The Sparks Brothers』(監督はエドガー・ライト)を観ようとしたら、2時間半近くもあるのだった。とにかく映画の冒頭でジャック・アントノフが「全てのポップ・ミュージックはヴィンス・クラークとスパークスのパクリである」とブチ上げるのにビビる。スパークスはともかくとして、ヴィンス・クラーク愛強すぎだろ。もちろん初期のデペッシュ・モードもヤズーもイレイジャーも最高ですけど。この伏線も映画の中盤で回収されるので、めでたしめでたし。というわけで、やはりエレクトロニック・ポップのスター達が登場しまくる『No.1 in Heaven』期の話が楽しかったな。ゴーゴーズのジェーン・ウィードリンも出演しているので『The Go-Go's』と併せて観るのがオススメです!
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常川拓也さんに「サム・フリークス Vol.15」で上映する『サウザンド・ピーシズ・オブ・ゴールド』と『ブッチャー・ボーイ』についてのコラムを書いていただきました! 10月24日(日)に渋谷ユーロライブで開催です!
「鳥には巣居、蜘蛛には蜘蛛の巣、人には友情」──ウィリアム・ブレイク
ケリー・ライカートは、『ミークス・カットオフ』で女性視点で読み直したミニマルな西部劇を試み、『First Cow』では上記の一節を引用し、1820年の米国で白人と中国系移民に育まれる穏やかな友情に焦点を当てた。その意味では、確かに19世紀の中国で貧しい父親から年季奉公で米国に売られた若い女性の苦難と異人種間のロマンスの実話に基づいたナンシー・ケリー『サウザンド・ピーシズ・オブ・ゴールド』は、1990年の時点で早くもその両方を志向していた映画であると言える。西部劇が前景化させてきた荒野での銃撃戦ではなく、彼女たちは、その背後で女性たちが食事の準備や洗濯、掃除、あるいは編み物に費やす場面に注意を払う点で共通する。特に『サウザンド・ピーシズ・オブ・ゴールド』では、隷属状態に置かれる女性を主役とすることで、西部開拓時代の搾取的な性別役割分担/性差別、そして人種差別や外国人嫌悪を明らかにし、カウボーイの家父長的な神話ではなく、女性の視点から日常の生活の問題として捉えているのである。過酷な現実を映し出しながらも、ナンシー・ケリーはヒロインを被害者ではなく、娼婦になることを拒み(「No whore!」)、さらに白人男性のカメリアコンプレックス的な思い上がりも是正するような信念を貫く自立した女性として提示してみせている。
初めて何も知らずに『ブッチャー・ボーイ』を見たときは、鋭利な題名とVHSのパッケージから勝手にホラーを予期したものだったが、この映画はショック描写に力を入れているわけでも主人公を悪魔の化身として登場させるのでもない。むしろ暗く悲惨な出来事を陽気に無邪気に描くからいささか驚いたことを覚えている。ニール・ジョーダンは、『狼の血族』で「赤ずきんちゃん」をモチーフに想像力豊かな思春期の少女の夢想をダーク・ファンタジーに仕立てたが、『ブッチャー・ボーイ』では過剰な思い込みに駆り立てられる少年にフォーカス。アルコール依存症の父と希死念慮に囚われた母のもとで育った主人公フランシーにとって、兄弟の契りを交わした唯一無二の親友だけが世界のすべてだったのかもしれない。一緒にいる間、田舎の小さな町はTVで見るカウボーイのように遊び回れるプレイグラウンドだっただろう。しかし、いつしか親友は世間と足並みを揃え、シャバい同級生と親しくし始めてしまう。それは裏切りにほかならない──これは、親友に強い執着を抱えた者の物語である。両者の友情のバランスが釣り合わなくなったとき、フランシーは、親友を奪った鼻持ちならない相手の母親を諸悪の根源とみなして被害妄想が暴走。独特なナレーションも渾然一体となって、原子爆弾への恐怖なども相俟った彼のパラノイアックな心理状態の感覚を深めていくような異色作。アリ・アスターは、「ニール・ジョーダンの不当に見過ごされた傑作であると同時に、『時計じかけのオレンジ』の精神的な兄弟」と本作を評している。
(映画ライター・常川拓也)