一言で言うと、『アイ・フィール・プリティ!』って10年前の価値観の映画って感じだよな。たとえば時代の変化によってプラスサイズのファッションモデルが登場してきており、エイミー・シューマーに対して「いわゆるモデル体型ではない」とはもう言えなくなってきているのだから。そういう認識はすでに保守的で古いと思う。というわけで中途半端に古くてつまらないので2018年のコメディとしては0点。
で、そういう古い認識がまかり通る田舎町でプロテストを行う話が『Dumplin’』なのであります。
一言で言うと、『アイ・フィール・プリティ!』って10年前の価値観の映画って感じだよな。たとえば時代の変化によってプラスサイズのファッションモデルが登場してきており、エイミー・シューマーに対して「いわゆるモデル体型ではない」とはもう言えなくなってきているのだから。そういう認識はすでに保守的で古いと思う。というわけで中途半端に古くてつまらないので2018年のコメディとしては0点。
で、そういう古い認識がまかり通る田舎町でプロテストを行う話が『Dumplin’』なのであります。
『アイ・フィール・プリティ!』がダメなのは、世間に蔓延っている「外見の美醜の基準」に対して作り手が根本的な疑問を抱いていないから。そこでいくら「全ての女性は美しい」と言ったところで建前でしかない。「美人でもフラれる」という話は「外見の美醜の基準」とは何の関係もない。だから外見の美醜の基準で苦しんでいる人に対する救いになるには弱すぎて、単なる慰めにしかなっていない。
『Dumplin'』が素晴らしいのは、「世間に蔓延っている外見の美醜の基準って、それってそもそも絶対的な信頼に足るものなの?」という問い掛けを行っているから。外見の美醜の基準で苦しんでいる人にとって真の意味での救いになるのはどちらかという話ですよ。
『アイ・フィール・プリティ! 』はエイミー・シューマーが「I'm beautiful!」と言うのをギャグにする。『Dumplin'』はダニエル・マクドナルドやマディー・ベイリオを絶対に「ブス」として扱わない。むしろ彼女達を蔑む奴等の方がクソなんだということをはっきりと描く。
『Dumplin'』はプラスサイズの女の子(『パティ・ケイク$』のダニエル・マクドナルド)がはみ出し者の仲間達と共にビューティー・コンテストに出場する話。『パティ・ケイク$』と同様に母と娘の物語でもあるんだが、『パティ・ケイク$』以上に素晴らしかった。
たとえば『アイ・フィール・プリティ! 』の作り手の美醜の基準が意外と保守的だった(エイミー・シューマーが「I'm beautiful!」と言うのがギャグになると思っていて、「絶対的な美人」は絶対的な美人として君臨し続ける)のと比べると、本作の作り手は美醜の基準/価値観を「時代によって更新されていくもの」として捉えるという真っ当な態度を取っているので清々しいことこの上ない。そもそも主人公達がビューティー・コンテストに出場するのは既存の保守的な価値観に対するプロテストの為であって、作り手の意識と二重写しになって非常に力強い印象を受けるのだった。主人公達がドラァグクイーンの一座と出会って価値観の多様性とその素晴らしさ/楽しさを知るという素敵なシーンあり。そしてドリー・パートン(!)による主題歌がゴールデン・グローブ賞にノミネート!
『エイミー、エイミー、エイミー! こじらせシングルライフの抜け出し方』のオープニングにおけるマイリー・サイラスの「Do My Thang」使いが超鮮烈だったのに比べると、同じくエイミー・シューマー主演の『 アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング』のオープニングでのマルーン5の「What Lovers Do」使いはどうにも間延びしていて、そこに映画の完成度の違いが端的に表れている感じ。
そもそも『アイ・フィール・プリティ!』はエイミー・シューマーが「I'm beautiful!」と言うことを「ギャグ」として観客に提示している映画なので、その後にいくら「全ての女性は美しい」とか言ったって綺麗事にしか聞こえないという大きな問題がある(というかエイミー・シューマーは全然普通に美人だと思うし。それこそ『シェイプ・オブ・ウォーター』でのサリー・ホーキンスだって全然美人だし、彼女達を「ブス」として扱う偏狭な感覚の方がよっぽどギャグでしょ。そういうクソな意識こそ笑いのネタにしていこうぜ、と思う)。
というか「いくら食べても大丈夫~」と言って少し大きめのタコスを食べるって、それって面白いか? ギャグにするんなら、そこはぷろたん並みに爆食いしてくれよ、と。上手くギャグに振れないんであれば、『おとぎ話を忘れたくて』のように抑圧に対して真摯に向き合って欲しかった。