常川拓也さんに「サム・フリークス Vol.14」で上映する『グレゴリーズ・ガール』と『シルビーの帰郷』についてのコラムを書いていただきました! 8月7日(土)に渋谷ユーロライブで開催です!
現代の観客にとって、『グレゴリーズ・ガール』の思春期のホルモンに振り回されるナードな少年の無邪気さと欲望、また初恋の女の子へのぎこちなさや躊躇、変わり者の級友をコミカルに愛情深く描くあり様は、ジョン・ヒューズから『フリークス学園』など、退屈な郊外の町でファーストキスを求める白人男子を描いた米国学園コメディと同種の馴染み深い感覚を抱かせる。男だけのサッカー部に入部してきた転校生の女子生徒に魅かれるのっぽのグレゴリーは、運動神経抜群の彼女にポジションを奪われても全く気にしなければ、部活も趣味(ドラム)もからきしでも一切思い悩むところのない態度がチャーミングだが、そのような雰囲気は『ナポレオン・ダイナマイト』なんかも重なるかもしれない。あるいは、兄よりも大人びた幼い妹から助言を与えられる兄妹の関係性は、『(500)日のサマー』を彷彿とさせる。一方で、無知な少年たちが、アパートで看護師が服を脱ぐ様子を外から覗き見るように、いくつか性差別も散見されるが、その意味でもこのジャンルが内包してきた有害な問題を孕んでいる。題名からもグレゴリーの女性への所有/客体化を含むニュアンスを一瞬嗅ぎ取ってしまうが、しかし実際のところ、むしろ少女たちの方が男を導く自立的な存在として際立てられている(女子たちの連携による策略がユニーク!)。青春映画にあって、ボーイ・ミーツ・ガールを装って、“運命の女性”との関係を描いたラブストーリーではない点は、今なお新鮮な驚きと魅力がある。ウブな少年の勘違いも男性優位の世界への少女の挑戦も笑わない優しさ!
『シルビーの帰郷』は、女は家を整理整頓して清潔に維持しながら家事を切り盛りしなければならないという伝統的な母性概念からの脱却を示す。主演クリスティーン・ラーチの夫トーマス・シュラムが監督した『ミス・ファイヤークラッカー』(サム・フリークスVol.12で上映した傑作)同様に、女性に設定される規範からの独立を謳った映画とも言え(どちらも幼くして孤児となり叔母に育てられる/た女性の物語)、サム・フリークスVol.6で特集された『わが青春の輝き』『若草の祈り』に続く文芸フェミニスト映画である。児童の福祉に国が官僚的に関与することへの懐疑的な視線は、本イベントが擁護するケン・ローチとも通じるものかもしれない。
サッカー少女はユニフォームのまま黙々と暗闇を走り、家を飛び出した女たちは逆算はせずに暗闇を漂流する。
「孤独というのは究極の発見なのだ」──マリリン・ロビンソン『ハウスキーピング』(映画ライター・常川拓也)