一緒に全作品特集を組んだ人から急に手を切られたことで有名な常川拓也さんに、一切バズらない不人気イベントの「サム・フリークス Vol.13」で上映する『ペニーズ・フロム・ヘブン』と『スマイリー・フェイス』についてのコラムを書いていただきました! 6月6日(日)に渋谷ユーロライブで開催です!
世界広しと言えど、スティーヴ・マーティンが口パクで歌い踊る『ペニーズ・フロム・ヘブン』とアンナ・ファリスがマリファナで終始ラリった『スマイリー・フェイス』の二本立て上映はないだろう。
前者で人々は大恐慌の時代の厳しさの中にいる。ミュージカルにも関わらず、光と影の交錯する夜街の静寂と孤独を描いたエドワード・ホッパーの絵画が参照され、彼らの歌うに歌えない心理や願望を1930年代の流行歌の口パクで探るという強烈なコントラスト。あるいは、妻(ジェシカ・ハーパー)に性的な要求を続けた挙句、違う女性に乗り換える楽譜販売員の主人公が破綻していくというファンタジーの様式を装って語られる絶望。このジャンルの欺瞞や矛盾を誇張したシニシズムに満ちたまさに怪作……この試みがなければ『ラ・ラ・ランド』も生まれ得なかったかもしれないと考えるのは大げさだろうか……?
大いなる鬱の後には抗鬱剤が必要だ。しかし、2本目の映画では、オーバードーズして躁状態に陥ってしまった女優志望のジェーン・Fが辿る長い1日が描かれる。酩酊状態の非論理的な思考回路そのままに進んでいくが、愚かな失態を続ける怠け者は男性の特権だったかもしれない。その意味では、女性主体のストーナー・コメディの先駆的な作品とも言え、ニュー・クィア・シネマを代表するグレッグ・アラキはブロンド白人女性を性的な対象ともトロフィーとも表象しない。視覚的なイメージの女性を消費しないまなざしは、特に食肉工場の場面で一層意味深なものとなる。そこで彼女は金儲けのために豚が屠畜され、暴力と支配の構造が隠蔽されていることを糾弾する──それは空想ではあるのだが。解体され(肉の加工処理の過程が挿入される)、消費される搾取のシステムが、動物の虐待であり、同様に労働者を無思考の存在として扱う父権的文化を忠告するのである。また、売人とレーガノミクスの議論を繰り広げ、「共産党宣言」に惹かれる彼女は、高学歴ながらも定職に就けない時代の若者固有の歴史を背景に持つだろう。
どちらも煌びやかなミュージカルや能天気なコメディが約束する幸福は訪れない。彼らなりの方法で暗い現実と距離を取らねばならなかった者たちの物語とも言うことができるかもしれない。たとえ人生がままなかろうと、彼らは白痴ではあるまい。少なくともお金でしか物事の価値を換算できない政治家とは違うということだ。
(映画ライター・常川拓也)