「肌蹴る光線 ーあたらしい映画ー」の井戸沼紀美さんに、「サム・フリークス Vol.10」についての文章を書いていただきました!
『サム・フリークス』が12月に上映する『マリアンの友だち』と『タイムズ・スクエア』は、どちらもNYに暮らす10代の女2人を主役として迎え入れている。
『マリアンの友だち(原題:The World of Henry Orient)』は、漫画家のダニエル・クロウズが『ゴーストワールド』を執筆する際にインスピレーションを受けたとされる作品。マリアンとヴァルの2人が、意中の音楽家、ヘンリー・オリエントを追い求め、ニューヨークの街を馳け回る。客観的にオリエントを見ると「この男のどこが良いのだろう?」と眉をひそめてしまうのだけれど、マリアンとヴァルの勢いはどうやら止められそうにない。その熱を裏付けるように、作品内ではこの名前「Orient」に含まれる「〈太陽・月が〉昇る」「東洋的な」といったニュアンスが随所で映像表現されており、特にマリアンとヴァルの2人が何の変哲もない道で見事に跳躍する様子をスローモーションで捉えた場面は象徴的。その下から上へと「昇る」エネルギーに、こちらまで翻弄されるようだった。
これに対して、『タイムズ・スクエア』が注視するのは上から下へと向かうエネルギーだ。年長者や権力者が自分の特権をふりかざせば、支配や暴力が簡単に生まれてしまうのは映画の中でも現代でも変わらない。『タイムズ・スクエア』は、そんなしがらみから主人公の2人、ニッキーとパメラを解放し、対等な地平を切り開こうとしている。
ニッキーとパメラは、両親やテレビの電波といった「支配」から次々に逃れていく。特に見逃せないのは、2人が病院から逃げ出すシーンの描き方だ。脳神経内科で出会った2人は、ニッキーが病室に飾られた薔薇の花びらを頬張ったことをきっかけに、熱い視線を交わす。ジューシーな唇で桃色の花弁を我が身に取り入れるニッキー、その様子を密かに詩としてしたためるパメラ。そして数日後、2人は共に病院を抜け出すことになるのだが、その時の2人は互いの手を引かず、言葉すら交わしていない。ただ同じ音楽に身を任せ、それぞれが階段を駆け下りていく。誰かに手を引かれたり、指図されることに飽き飽きした2人は、どんなに身近な存在のことも、自分の力では支配できないことを熟知している。ニッキーとパメラは互いを求め合う時、喉の奥が擦り切れて血がにじむほどに互いの名前を呼び合うが、その時ですら、それぞれの身体は自由なままだ。支配されずに踊る。これがパメラとニッキー(=スリーズ・シスターズ)の指針だろう。
そんな風にして大きな力に中指を立てつづけた同作は皮肉にも、完成前にニッキーとパメラの同性愛者としての側面を排除して編集されるという運命を辿った。本来望まれた2人の生き方は、力で歪められてしまったのだ。その事実には当然胸が締め付けられるものの、視点を変えるとニッキーとパメラは『タイムズ・スクエア』が上映されるたび「支配はずっと続いている」「今こそ集え」と絶叫しているようにも感じられる。どうか年末、2人の切実な叫びを、この映画の放つ閃光を、スクリーン前で受け止めてほしい。
(「肌蹴る光線 ーあたらしい映画ー」井戸沼紀美)