『グッド・ヴァイブレーションズ』の公式ツイッターも佐々木俊尚のうんこみたいな感想をリツイートしている暇があったら、こういう有益な一連のツイートをRTすればいいのに。というか『グッド・ヴァイブレーションズ』に限らず、だいたいの公式ツイッターって検索の精度が甘いよね。逆に例えば石野卓球とかは検索の仕方が抜群に上手い。こういうところに様々な蓄積の差が出てくるんだと思う。
ベルファストの伝説的レコード店オーナーTerri Hooleyの伝記映画Good Vibrationsが来月日本で公開されることに今更ながら気付いたので(めでたい!!!!)、連投になってしまうけどTerriと仲間達による回顧録Hooleyganを過去に読んだ際のツイをこの後RTしていきますhttps://t.co/OHwT1qpIud
— sosannan (@sosannan) July 17, 2019
同時代の世界の他の都市と同様ヒッピーカルチャーを謳歌した60年代初頭から、紛争の激化で急速に分断され疲弊していく60年代後半〜80年頃のベルファストの変容が、ポピュラーカルチャーの担い手としての視点を通して生々しく、しかしあくまでポジティブに綴られていて、非常に面白かった。
— sosannan (@sosannan) January 24, 2014
Terri以外にも様々な人が指摘しているように、50年代のロックの到来以降、U2のようなジャイアントが現れるまでは、保守的なカトリック教会に日常を覆われた共和国の首都ダブリンより、ベルファストの音楽シーンの方が常に何歩も先を行ってきた。
— sosannan (@sosannan) January 24, 2014
65年にはストーンズがアルスターホールでライブを演っているし(ただし、観客のあまりの熱狂に、開始20分でバックステージに引っ込まざるを得なくなったらしい)、翌66年には、ニューポートを経てエレクトリファイしたディランも公演している。
— sosannan (@sosannan) January 24, 2014
にもかかわらず、紛争の激化により、60年代後半以降のベルファストは英米のあらゆるバンドやミュージシャン達のツアー目的地から外されてしまう。さらに、ローカルのアーチスト達が国外のレコード会社と契約したりディストリビュートされるチャンスも、ほとんどなくなっていく。
— sosannan (@sosannan) January 24, 2014
英米の音楽シーンとの断絶のみならず、アイルランドからさえも敬遠されていた。79年にダブリンのパンクシーンが盛り上がりの兆しを見せた時(とはいえベルファストよりは立ち遅れていた)、Terriはいくつかのバンドをベルファストでのギグに誘ったが、誰も首を縦に振ってくれなかったという。
— sosannan (@sosannan) January 24, 2014
「75年のMiami Showband massacre (アイルランドで人気を博していたキャバレーバンドの北アイルランドツアー中に、メンバーがUVFに撃ち殺された)の後では、それも仕方ないと思った」とTerriは語る。
— sosannan (@sosannan) January 24, 2014
彼も関わった北アイルランドのパンクシーン記録映画'Shell Shock Rock'は、79年にコーク映画祭へ招待されるのだが、なんと上映数時間前に事務局から「作品の技術的なクオリティが標準を満たしていない」という意味不明の声明が出され、公開中止となる。
— sosannan (@sosannan) January 24, 2014
Terriの生涯を通しての戦いは、このようにして文字通り「世界のポピュラーミュージック地図から存在を消された」ベルファストを元通り地図上に復活させること、そして、閉ざされたこの街の刺激的なミュージックシーンをなんとかして外の世界に伝えることだった。
— sosannan (@sosannan) January 24, 2014
Terri Hooleyがベルファストの音楽シーンをまとめ上げ、牽引し続けることができたのは、コミュニティが分断される前、ヒッピーカルチャー時代に彼自身が築いたソーシャルコネクションの存在が大きいんだろうな。
— sosannan (@sosannan) January 25, 2014
また、音楽と生まれ育ったベルファストを心から愛し、決して見放すことがなかったのはいうまでもなく、ビジネスマンではないが根っからのパーティーピープルだったことが、それ可能にしたのだろうとも思う。
— sosannan (@sosannan) January 25, 2014
驚いたのは、彼の尋常ではないアクティブさ。17歳で北アイルランド反核キャンペーン青年団体のチェアマンに就任、その流れでアングラのフォーククラブを運営したり、10代のうちにベルファスト・ブルース協会の秘書を務め、多くのギグを主催している。
— sosannan (@sosannan) January 25, 2014
70年代の後半にはベルファスト・レゲエ・ソサエティを設立。その他にも、音楽だけでなく詩や写真など様々なフリーペーパーを発行したり。
— sosannan (@sosannan) January 25, 2014
そこには、労働党員であり、労働組合の幹部を務めつつよりよい社会を追求してソーシャリストとしての人生を送った父親の影響が見られる。ガチガチのプロテスタント労働者階級コミュニティで生まれ育ったものの、偏見を持つことなく幅広いバックグラウンドの人達と交流があったのも、父親のおかげだと。
— sosannan (@sosannan) January 25, 2014
彼は自分の店について、"in fact it was a social element which was the best part of all things"と言っている。レコードショップに通うことやラジオを聴くことが、大きなソーシャルイベントだった時代。
— sosannan (@sosannan) January 25, 2014
コミュニティ同士のコンタクトがなくなって街がゲットー化し、他人に対して敵か味方かのラベリングしかできない偏狭なメンタリティが育って行く中、様々な趣味や信条の人間が、街のあらゆるエリアから彼の店を目指して集まり、ウィンドウシートで音楽を聴いたりコーヒーを飲みながら談笑していた。
— sosannan (@sosannan) January 25, 2014
DVDに収録されてたインタビューで、ピールのラジオ番組へのお便りは、当時北アイルランドからのものがかなり大きな割合を占めていたというコメントがあった。
— sosannan (@sosannan) January 30, 2014
これは回顧録の方に書いてあったのだが、夕方5時半に大方の店が閉まり、治安的な理由でも屋内で長い夜を過ごすしかなかった当時のベルファストの人々にとって、夜10時から真夜中までピールの番組を聴くことは、日々のソーシャルライフにおいて大きな場所を占めていたのだと。
— sosannan (@sosannan) January 30, 2014
ジョン・ピール・ショーは毎晩の儀式のようなもので、「決して大袈裟に美化しているのではなく、番組がオンエアされている2時間だけは陰鬱な現実を忘れさせてくれたし、北アイルランド以外のUKのパンクシーンの様子を知ることもできた」。
— sosannan (@sosannan) January 30, 2014