いつでも柔和な笑顔で周囲を明るくしてくれることで知られる常川拓也さんに、4月7日(日)に渋谷ユーロライブで開催される「はみ出し者映画」のイベント「サム・フリークス Vol.4」(今回はルーカス・ムーディソン特集!)についてのコラムを書いていただきました! このイベントでは洗面所の水が無料で飲めますのでよろしくお願い致します!
最も敬愛する映画監督にルーカス・ムーディソンの名を挙げるジェームズ・ガンは、彼の最高傑作『スーパー!』がムーディソンのデビュー作『ショー・ミー・ラヴ』──スウェーデン公開当時、イングマール・ベルイマンも「若き巨匠の最初の傑作」と絶賛した──から影響を受けた作品であることを公言している。彼は、『ショー・ミー・ラヴ』の「荒々しくて不鮮明」な映像の持つ雰囲気を自作に取り入れたかったのだという。
それは、ムーディソンの本質を捉えているかもしれない。彼は、社会に対して反抗的である一方で無防備で、タフでありながら傷つきやすく、シニカルだけど無邪気な子どもを主人公に据え、無闇な彼らの視点を通して世界を見ることを好む。それは、自分自身を守るための手段も能力も何も持っていない子どもが、世界で起こっている問題から大人よりも真っ先に傷を受ける存在だからだ。『リリア 4-ever』の親から放棄された少女リリアも『ニュー・カントリー』のソマリアからの不法移民の少年アリもここではないどこかへ逃げることを夢見るが、彼らの理想は、しばしば目の前の残忍な現実と衝突する。ムーディソンは、苦しみの真っ只中に生きるティーンエイジャーが希望にしがみつくそのカオスと闘争を描き出す。だからこそ、彼の映画は、「荒々しくて不鮮明」なのだ。
最も弱い者の見方でいまの世界を識別する/させることがムーディソンの本分ならば、『リリア 4-ever』では極めて特徴的な手法が盛り込まれている。彼は、リリアが終盤で体験するあまりに耐え難い苦痛と屈辱、そのひどい嫌悪を彼女が見たままに観客に認識させようとする。主観ショットを採用し、カメラを彼女の目の位置にそのまま置くことによって、まさに私たち自身の身に起こっていることのように感じさせるのである。
また、どちらの作品においても登場する大人たちは、卑劣な性的搾取者や性差別者、ないしは人種差別主義者ばかりである。例外は『ニュー・カントリー』でアリとともに強制送還から逃れるため逃避行に繰り出すイランからの不法移民マスードと落ち目のポルノ女優ルイーズのみであり、疎外されている人に手を差し伸べるそのような大人の有無が両作の違いでもあるだろう。それは、貧しい人々を搾取するレイプ社会に対する作り手からの政治的声明にほかならない。アンチ・オーソリティな反骨の映画作家ルーカス・ムーディソンは、映画を通して、「希望への闘い」を続けているのである。
「私たちは人生でも希望を探さなければなりません。私にとって、『リリア 4-ever』は世界のいくつかの地域を正確に描写する試みです。人生は素晴らしいものにできますが、それはまた地獄のようにすることもできます」「『リリア 4-ever』は責任と罪悪感を伴うものでした。私は世界で起こる問題に対して責任があると感じますし、私たち全員がそうでなくてはならないと思います。私はこの映画を作ることで、それに対する自分の責任を取ろうとしました。それが、私が『リリア 4-ever』をソフトなものにしたくなかった理由の一つでした」
(映画ライター・常川拓也)