『(500)日のサマー』をもっと楽しむための覚え書き(映画を観た人向け)。
ついに『(500)日のサマー』が公開されたわけだけど、ひとつ気になっているのが、試写で観た人達のレビューでサマーを「小悪魔」だとか「気まぐれ」だとか言っているものがかなり散見されたこと。おいらが本作の公式ブログに寄せたコラム『夢の人』でも書いたことだけど、サマーはトムに「真剣な関係を望んでいるわけではない」ということを早々に伝えていることからも分かるように、その姿勢/態度は一貫してものすごくフェアなんだよね。それと、冒頭の白黒映像の「サマー効果」のシーンは監督も言ってるけど(公式サイトの「Special」コーナーのインタビューを観るよろし)、「トムが勝手にそういう風に考えている」ってだけで事実無根だからな(つまり「自分がこれだけ惹かれるんだから、昔から誰もがサマーに恋い焦がれてきたはずだ!」と)。「サマーはモテモテ」なんて「事実」はこれっぽっちも描かれておりません。
というわけなので、そんな人達が見落としているであろう本作の最大のポイントを以下に記しておくことにする。ここをきちんと押さえていれば、サマーのことを「小悪魔」だとか「気まぐれ」だなんて軽々しくは言えないはずだ。
「The boy, Tom Hansen of Margate, New Jersey, grew up believing that he'd never truly be happy until the day he met... “THE ONE”」(劇中ナレーションより)
「トムは“運命の人”に出会わなければ自分は幸せになれないと信じていた」
どうしてそんな風に信じるようになったの?
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「This belief stemmed from early exposure to sad British pop music anda total misreading of the movie, “The Graduate”」(劇中ナレーションより)
「少年時代に英国産ポップ・ミュージックの洗礼を受け、映画『卒業』を完全に間違って解釈してしまったから」
「洗礼」は分かるとして、『卒業』の間違った解釈って?
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『卒業』をハッピーエンドと解釈してしまうこと。
長距離バスの後部座席に腰掛けた二人は、エレーンの花嫁姿という格好に衆人環視を受けながら、どこかへと旅立っていく。
このときのバスの乗客が老人たちであったことから、それは「今後の二人の将来が必ずしもバラ色の未来ではない」という暗示であるという説がある。座席のベンジャミンと花嫁衣装のエレーンは、着席直後こそ笑っているものの、その笑顔はすぐに顔から消える。焦点の合わない視線は中にとどまり、表情は深刻味を帯びている。それぞれの両親からの決別とも言える二人の行為の結果、未来や現実、人生に対する二人の不安を象徴するような印象的なシーンである。
そもそも『卒業』の監督はマイク・ニコルズだしね。だって『卒業』の前作が『バージニア・ウルフなんてこわくない』で、次作が『キャッチ=22』だぜ(『(500)日のサマー』のDVDのオーディオコメンタリーでも脚本家が「『卒業』はハッピーエンドじゃねえぞ!」と明言しております)。
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少年時代に英国産ポップ・ミュージックの洗礼を受け、映画『卒業』を完全に間違って解釈してしまったことで、“運命の人”に出会わなければ自分は幸せになれないと信じているトム。対して、サマーはそのようなことをまったく信じてはいない。
「The girl, Summer Finn of Shinnecock, Michigan, did not share this belief」(劇中ナレーションより)
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『(500)日のサマー』では、サマーとトムが『卒業』を観た日が何度も描かれる。
その日のサマーは楽しそう/幸せそうだった、サマーとはうまくいっていた、と当初のトムは考えている(そして、それなのにいきなり別れ話を切り出すなんて冷酷すぎる!と)。
しかし繰り返し思い返していくうちに、その日のサマーはずっと何かを思いつめていた、サマーとはうまくいっていなかったことにトムは気づく。
サマーは映画館で『卒業』を観て涙を流すが、彼女が「『卒業』っていい映画ねー」と感動して泣いているわけではないのは以上のようなことからも明らかだ。『卒業』を正しく解釈できているサマーは、「今後の二人の将来が必ずしもバラ色の未来ではない」という現実の厳しさを描いたエンディング(そこにサマーとトムの姿が重なって見える)がつらくて涙を流したのである(エンディングの「気まずい沈黙」が強調されて引用されていることに注目すべし)。
本作の観客にとっては、サマーと『卒業』のエンディングが、「最初はハッピーに見えたけど実は…」という意味で二重写しになる。
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つまりトムは(『卒業』と同様に)サマーのことをきちんと理解できてはおらず、ただ自分の願望を投影していただけだったのだ。もしサマーが「小悪魔」や「気まぐれ」に思えたとすれば、それは彼女がトムの願望に沿わない行動をとったからだ。建築家になる夢を諦め、“運命の人”に出会わなければ幸せになれないと信じていたトムは、自分が他力本願で生きていたことに気付かされる。
『(500)日のサマー』には誰も「悪者」は登場しない。見方によって一人の人間が最低にも最高にも思えるだけのこと。映画を通して、「同じ物でも見方を変えてみると違って見えてくる」というテーマが様々な形で登場する(『卒業』を観た日のこと以外でも、LAの街並み、サマーのシミ等々…)。
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